オフノートを語る

 [オフノートを語る-1]
 
 本ブログに「オフノートを語る」を連載することにいたしました。これまで出遇った知己、そしてこれから出遇うだろう新しい友人たちにオフノートの来し方、現在・未来について、おもうところを自由に語ってもらおうとおもいます。記念すべき第一回目の語り部は清水久靖さん。清水さんは昨年、HMV渋谷を退社し、本年よりレコードショップ「レコンキスタ」をたちあげました。今回、清水さんにはオフノート8月新譜『スパイラルトーク』について、すばらしいコメントを寄せていただきました。また、ずっと以前にいただきながら今日まで掲載を怠ってきた、すぐれた「原田依幸論」と併せて、ここに掲載させていただきます。清水さんの主宰する「レコンキスタ」は現在、ネットショップとして展開中です。この混迷する時代の荒海に音楽を媒介した身体・人間・生命の「失地回復」を目指して、敢然とあらたな航海を開始した「レコンキスタ」号にこころからなる連帯のエールを贈ります。ボンボヤージュ!(K)



 『スパイラル・トーク』に寄せる

 『スパイラル・トーク』を聴いていると鈴木勲が「目の前で何が起こっているのか」を察知する能力に如何に長けているかということがよく分る。西川、上地、それから自身の音の成り立ちと行く末を身体で捉え、3者3様に鳴らされる音を豊かな“音楽”へと引き上げる。そこには音が鳴る前から、その音を既に理解しているかのような達観した視座が存在しているのである。

 そのためか、ここで鳴らされている多くの音には無駄がない。情緒的なメロディを奏でる時も、演奏が破綻をきたしそうなスリリングな瞬間も全てが極めて音楽的に機能しているのだ。ベーシスト3人による演奏という一見聴きづらそうに思える編成ではあるが、決してそうはなっていないのもそのためであろう。観念に逃げることなく、あくまで音楽であり続ける3者の本気の対話、各々の音が袋小路へと迷い込むことなく螺旋状に止揚されていく素晴らしい作品である。

清水久靖(Record Shop Reconquista)



 原田依幸の音楽 

 即興演奏/フリー・ジャズのアルバムを聴く度によく思い出す対談がある。それは、詩人、田村隆一の対談集『砂上の会話』の中に収められている、俳人、金子兜太との対談だ。ここでは「言葉における定型」が1つのテーマとして取り上げられており、戦後詩壇において圧倒的に優れた自由詩を残した田村が詩の本質を定型とみていることを読み取れる発言が残されている。僕がこの対談を興味深く読んだのは、詩における自由を巡るこの論考が、音楽の自由、つまり即興演奏/フリー・ジャズにおける自由についても共通した示唆を与えてくれるように思えたからである。件の対談によると反定型とは定型があるから産まれる概念であるということ。つまり、非定形という概念は詩においてはあり得ないということだった。なるほど。この論考をそのまま即興演奏/フリー・ジャズに当てはめるのなら、フォームの解体もやはりフォームがなければ成り立たないということになる。確かに、制度化された悪ふざけ(=非定型)が音楽として成立しているとは思えない。そう考えると、即興演奏とは自身の中に確固たる定型を持ち得た音楽家にしか許されない行為となる。つまり即興演奏における自由とは定型を徹底的に見つめることによって反定型へと向かうこととも言えるのだ。
 
 多くのフリー・ジャズはこういった思考の元に収斂されるような演奏だと思っていたのだが、オフノートから発売されている原田依幸関連の4作品『マージナル』、『HOMURA』、『一刀両断』、『慟哭』には別次元の良さがある。いや、定型/反定型を巡る良さも考えることも可能だが、そういった論考からこぼれ落ちる所にこそ大きな魅力を感じてしまう。不思議なことに原田の作品はフリー・ジャズのスタイルを取りながら、演奏のみならず思考までもが大きなクリシェの中に埋没したこのジャンル特有の閉塞感がまるでないのである。

 デレク・ベイリーのカンパニーやスティーヴ・ベレスフォード、更には近藤敏則との共演でも知られるチェロ奏者、トリスタン・ホンジンガーと共演した『マージナル』で聴くことの出来る2つのセッションには現代音楽や実験音楽、ジャンク・ミュージックなどを内包した魅力がある。しかし、ここで示されている内包とはファウストやレジデンツのように1つの作品の中で幾重にも変容を重ねていき、そして、その結果ジャンルレスという素晴らしき廃墟を現出させる方法とは違う。ここでは、即興演奏の中で先鋭化された音の断片が様々なジャンルを横断していくのではなく、様々なジャンルを超越してしまっているのである。この盤に変容という言葉で括りきれないある種の超越的な瞬間が多々訪れるのはその為であろう。

 続く『HOMURA』。これは韓国在住の2人優れたインプロヴァイザーとの共演盤。1人はカンテーファンとの共演でも知られるトランペッター、崔善培。そしてもう一人はレコメンデット、カシーバや大友良英のONJOでも知られるテナーサックス奏者のアルフレート・ハルトだ。この盤にも『マージナル』同様に超越的な瞬間は見受けられるが、それ以上に面白いと思えるのは1曲目『星火』に象徴されるようなアンサンブルにある。即興演奏でありながらも、まるで構成やモチーフが始めから決まっていたかのような、美しくも歪なアンサンブルを楽しめる側面があるという点だ。アンサンブルを意識することなく成立するアンサンブル、その歪さが聴き手には未知の世界への誘いのようにと機能しているのである。

 そして、上記2作品とは、また違った魅力を伝えてくれるのが鈴木勲とのデュオ『一刀両断』である。トリスタンとの作品では互いが対峙しぶつかり合っていたが鈴木との場合は違う。鈴木は原田の鍵盤をいなすように音像の全体をスウィングさせる。これは鈴木が原田と対峙していない訳ではない。このスタンスこそが鈴木の対峙の仕方なのだ。なぜなら鈴木はトリスタンや原田と違って即興演奏を主戦場としてきたインプロヴァイザーではないからだ。だからこそ、彼はあくまでも彼のジャズのスタンスを崩さない。この作品がとてもユニークな仕上がりとなっているのはこの為だ。勇猛果敢で硬軟揃えた原田の鍵盤に対して鈴木は超越的な視座を持って迎え撃つ。トリスタンとのデュオにはフリー・ミュージックの極北を見るが、鈴木とのデュオには異形のジャズを見ることが出来るだろう。

 そして、原田・鈴木・トリスタンのトリオによる『慟哭』。ここでは3者はバラバラの方向を向きながらも、それぞれの音が磁力のようにそれぞれを引き寄せている。そして、その運動が全体の音像を止揚しているかのようである。様々な音楽的な側面を垣間見せ、寄り添ったり離れたりしながら、1つの大きなウネリを持った音楽として成立しているのだ。このことはとても感動的だ。こういった状況が成り立つ背景には3者の音色が圧倒的な強度を持っているということが言えるであろう。だからこそ、1聴するとアンサンブルとしては破綻しているようにも思えるが、本当の意味では決して破綻していないのだ。この混沌の中には共鳴という言葉がふさわしいと思えるような美しい響きを見出せるであろう。

 やはり、原田の演奏は閉鎖的なフリー・ジャズとは一味違った絶妙な解放感がある。そもそもフリー・ジャズと言う言葉でこれらの演奏を捉えることにさえも違和感を憶えてしまう。それは彼がとても自然体で演奏していることに大きな要因があるように思えるのだ。この場合の自然体というのは緊張感がないということでは全くない。言うなれば、鍵盤の前に座る原田こそが原田本来の自然な姿のように思えるという意味である。そして、いつでもフラットな状態に自分を置くことが出来るということだ。だからこそ、ステレオタイプなフリー・ジャズのように、制度や理念の奴隷になり下がることはないし、音から何かを読みとらなくてはならないというチャチな脅迫を強いることもないのだ。つまり、音楽以前に存在するジェスチャーを徹底的に剥ぎとり自己と音楽を同一化させているのである。「人間が音楽だ」というのはこれ以上ない位に陳腐な表現ではあるが、ロバート・ワイアットによる『アーティスティックな声明がよりパーソナルになればなるほど、それはよりユニバーサルになって、多くの人がコネクトできることを強く信じている』といった発言がとても説得力を持って響くことがあるように、自己を徹底的に掘り下げた人間のみが特権的に得ることの出来る境地には「人間が音楽だ」としか表現出来ないこともあるのだろう。

清水久靖
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by masaru0801 | 2011-09-02 15:24 | off note news